日本霊異記


 日本霊異記は、正式には日本国現報善悪霊異記と呼び、平安時代初期に編纂された我が国最初の説話集であります。特に仏教関係の物語をまとめており、奈良時代の世相が記述されています。この日本霊異記の第二十二話に登場する信濃国小県郡の跡目の里は、大法寺近くの当郷地区とされております。このことから、今から1,200年以上昔の奈良時代から、大法寺がある上田・小県地域が政治的に文化的に非常に発展しており、仏教が根付いていたと考えることができます。

 第二十二話は、仏教において最も重要な考え方である因果応酬について語られております。生前に、細工を加えた秤を使って不正に財産を蓄えた者が、死後に地獄において大変な目にあう一方で、生前に写経を行ったことから救われたとしております。奈良時代において、法華経を写経することがいかに善行であったかをうかがい知ることができます。また納経を行ったしるしとして、札を作成していたことも書かれており、納経帳(御朱印)に似たようなことが奈良時代より行われていたと想像されます。

第二十二話

重いはかりで貸した物を取りたて、「法華経」を書き写して、この世で善悪二つの報いを受けた話

一、他田舎人蝦夷、冥界にいたる

 

 他田舎人蝦夷(おさだのとねりえみし)は、信濃国小県郡の跡目の里の人でした。蝦夷は財産が豊かで、お金や稲を貸して過剰の利息を取っていました。また一方で蝦夷は仏教を信じており、「法華経」を二度書き写し、その度ごとに法会を催し購読しました。しかしある日、蝦夷が思い返してみると、まだどうにも満足できないので、謹んで三度目の洗写を行いました。ただし、三度目は完成の供養をしませんでした。

 

 宝亀4年(773年)の四月下旬に、蝦夷は急に死んでしまいました。妻子たちは相談して、

「丙の年であるから火葬にしないでおこう」

と決めて、埋葬の場所を定めお墓を作り、亡骸を安置しました。ところが不思議なことに、蝦夷は死んだから7日経つと、急に生き返り次のように語りました。

 

「四人の使者がやって来て、私は連れていかれた。初めは広々とした野原があり、次に急な坂があった。坂を上りきると大きな建物があった。その建物のところに立ち見渡すと、大勢の人々がほうきで道を清掃しながら、

「「法華経」を書き写した人がこの道をお通りになるので、私たちが掃除をしているのです」

と言っていた。私がそこへ行くと、人々は私を待ち構えておりお辞儀をした。その先には広さ一町ほどの深い川があり、橋を渡してあった。そこでも大勢の人々が集まって橋を修理しながら、

「「法華経」を書き写した人がこの橋をお渡りになるので、私たちが修理をしているのです」

と言った。私がそこへ行くと、ここでも人々は私を待ち構えておりお辞儀をした。

 

 橋を渡っていくと黄金の宮殿があり、宮殿の中に閻魔大王がいらっしゃった。橋のたもとには、三つの分かれ道があった。一つは広く平坦であり、一つは草が少し生い茂っており、もう一つの道には草がぼうぼうと茂って道もふさがっていた。私はその道の前に立たされた。そして四人のうち一人の使者が宮殿に入っていき、

「あちらに、その者を召し連れて参りました」

と申し上げた。閻魔大王は私を見て、

「あれが「法華経」を書き写した者か」

とおっしゃって、草の少し茂った道を指示し、

「あの者をこの道に連れて行くように」

とお命じになった。

 

 四人の使者は私に付き添って草の少し生い茂った道を地獄まで連れて行った。そして熱い鉄の柱のところに行き、私にその熱い鉄の柱を抱くように命じた。そして更に、鉄を編んで熱く焼いたものを私の背中に押し付けた。この刑を三日三晩受けた。次に熱い銅を鉄のときと同じように抱かせ、同じく編んで熱くしたものを私の背中に押し付けた。この刑も三日三晩続いた。これらの熱さはまるでおき火のようであった。鉄や銅は熱いといっても耐えられない熱さではないが、そうかといって決して楽なものではない。編んだ鉄や銅は重いが、これも耐えられない重さではない。しかし決して軽くはない。生前の悪行の報いであるから、ただ自然と鉄や銅を抱き、背中に負う気持ちになった。

 

 

長野県 大法寺 地獄絵図
地獄絵図 大法寺蔵

二、蝦夷、法華経を写す功徳により、冥界より生還す

 

 三人の僧が私のところに来て、

「そなたはこのような目にあわれる理由をわかっているか」

と訊ねた。そこで私は、

「まったくわかりません」と答えた。僧はふたたび、

「そなたは現世で何かよいことをされたか」と訊ねた。それで、

「私は「法華経」三部を書き写しました。しかしまだ一部は完成の後に、供養をしておりません」と答えた。

 その時、僧が札を三枚だした。二枚は金の札であり、一枚は鉄の札であった。また秤を二基出した。一基は同じ量目で稲一束分だけ重くかかる。一基は同じ量目で稲一束分だけ軽くかかるようにできていた。そして僧は、

「札を調べてみると、実際にそなたが言われたとおりです。そなたは、真心をこめて三部の「法華経」を写された。しかし「法華経」を写した一方で、重い罪をも作った。それは何か。そなたは二つのはかりを利用し、人に貸すときは軽いはかりを使い、徴収するときは重いはかりを使った。だから、そなたは閻魔大王に呼ばれたのだ。しかしもうよろしい。すぐに現世に帰ってよろしい。」

といった。

 

 私が冥界からこの現世に帰ってくると、途中では以前と同じように大勢の者がほうきで道を掃除したり、橋を作ったりして、

「「法華経」を書写した人が閻魔大王の宮殿から帰ってこられた」

と話していた。その橋を渡り終え、ふと見ると私は生き返っていたのだ」と語った。

 そしてその後、蝦夷は三度目に写したお経を、信心の心を起こして購読し供養をした。

 

 善を行えばよいことが招き寄せられ、悪を行えば災いがやってくることが、この話で語られております。善悪の報いは決して消え失せることはありません。そのため、蝦夷は同時に二つの報いを受けたのです。だから人はもっぱら善を行い、悪をしてはならないのです。

長野県 大法寺 極楽絵図
極楽絵図 大法寺蔵